幕末・明治維新と言うと、新撰組やら白虎隊やら維新志士やらの血が飛びまくる大合戦が人気があるような気がするが、そういう切り合いって実はそれほど重要でない。人を殺して何が得られるかというと利権の椅子ってだけ。利権は数に限りがあるからそれを得るには命を掛けて奪い合う必要がある。幕末は薩長と幕府が権力を争ったりするわけだけど、権力の椅子に座れるのは片方。そして、勝った方がそれを得てうまい汁を吸える。薩長が勝ったわけだけど、薩長の中でも実際利権を得た人は多くはなかったわけで、それがその後の士族の反乱として表に出てくる。
幕末という時期は、外国が近隣にやってきて日本が構造変化する必要があった時代。江戸時代というのは、徳川幕府が各藩の地方自治を認めていたけど、各藩が力を付けないように経済的に束縛を課して統治を可能にしていた。外国貿易という経済力に大きく影響を与える要素を鎖国によって排除し、参勤交代やら諸々の工事、事業やらで各藩の経済力を奪う。それによって二百数十年江戸時代が安全に続いていた。しかし、外国が登場し、日本が一国として外国と渡り合う必要が生じた。それは、各藩が各自自治を行い、それを幕府が管理するという弱い集権状態では対応できないということである。幕末の外国の万国博覧会では幕府と薩摩が個別に展示を行ったぐらいである。さらに、外国は交易を要求してくる。交易によって外国製品の流入やら日本の物産の輸出やらで経済構造が変化してしまうことを意味する。流通が変動することで、各藩の収入が変化し、大きな経済力をつけてしまう藩も登場することで、地方分権統治が管理しにくくなる。さらに各藩間の人的物的交流が少ない江戸時代の状況と相反する状況でもある。このような変化は、日本が中央集権国家になることを暗に必要としていた。
この要求に一番敏感だったのは幕府で、幕府内の改革から日本全体の改革という流れが生じる。外国諸制度に詳しい人材を一番持っていたのが幕府であったし、これは自然と言える。一方で、地方や幕府内の一部は攘夷と叫んで外国を排除しようとするし、幕府が外国との交渉を遅らせるために朝廷を持ち出したことで、復権を狙って朝廷内では陰謀が活発化し、それは薩長など強豪諸藩が政権奪取を狙い始めるきっかけともなる。とは言え、薩長は最初攘夷を優先して外国と戦争し、城下町を焼かれたりと散々な目に会い、それから政権奪取に主目標に定める。外様諸藩の行動が遅れ勝ちの中、幕府は制度改革を行い、厳しい財政問題を徐々に処理しながら、新制度を導入していく。幕府は幕府内では改革に成功したと言える。ただ、朝廷工作の失敗で事態は一変する。これは幕府が薩長に譲歩し過ぎて一気に朝敵宣言されただけだったが、その後の慶喜の行動で致命的になってしまった。本来なら、戦争でひっくり返せる状況だったが、御旗を掲げ幕府軍の士気を挫き、緒戦で勝ちを収めて優勢になった薩長が、慶喜に政権放棄を決断させてしまった。
慶喜が薩長に政権を移譲する代わりに自身の安泰を図ったために、江戸開城まですんなりいってしまう。この辺りの慶喜の本心やらいろいろ活躍した勝の意図はよく分からないが、政権移譲があまりに簡単に実現してしまった状況は日本に幸か不幸かどっちに作用したことかよくわからない。でも、幕府が徹底抗戦して小栗の作戦の通りに行動して、箱根を塞がれて薩長の主力軍が幕府の海軍で崩壊した場合、日本は東西で分裂したかもしれない。西の天皇を掲げた薩長政権と東の徳川政権という感じに。東の徳川政権の方は造船場が稼動し近代化を一気に進めて優位に立つ感じがする。近代化のための人材は徳川政権の方が多いし。西の薩長政権は英国がどれだけ支援を継続するかそれ次第。琉球、中国近辺の交易及び食料生産でなんとか経済を保つ後進地域になってしまう気もする。しばらくは軍事力をそれなりに確保できるから、朝鮮へ進出か、徳川政権と戦い続けるかという軍事国家にしか進む道がない。その軍事力は英国依存でしかないが。結局、英国が見切りをつけた時点で、徳川政権と合流する、もしくは、吸収されるって形か。
薩長対幕府の戦争が開始した時点で、薩長の利点は、英国の支援、軍事力、天皇の確保しかないし、それは近代化にはあまり合致しない利点でしかなかった。その意味で、徳川政権が経済的、近代化的に優位に立っていたにも関わらず、一時の敗戦と朝敵の汚名だけで政権を捨てることは、あまりにももったいないことだったと思う。小栗は大局的な利益を目指して行動したけど、時代を決めたのは局所的な活躍をした慶喜やら勝やら諸維新志士の行動だったというのが悲しい。
結局、幕府と薩長との闘争は大局的視点よりも戦争とか見栄え(朝廷を味方にしたか)とかそういう局所的な視点で決してしまったと言える。それは、幕末、明治維新において、新撰組やら白虎隊やら維新志士の活躍に注目が行ってしまうことの原因かもしれない。確かに、動乱の中、様々な生き方を選んでいった彼らの活躍は面白いかもしれない。しかし、単に刀をとって人を殺す殺されるという単純な勝負の世界でしかなかったし、目の前に殺す相手がいたから殺しを行ったというだけの、時代の潮流に身を任せてしまっている人が大部分であった。その当時、日本がどういう状況に置かれ、どういう方向に向かえばいいかを考え、そして、時代の荒波に逆らって挑戦しつづけた人はほんの一握りであった。そして、勝利した、生き残った人が単にその後の利権を得るということである。勝負の世界は誰が利権を得るかということでしかないのである。
幕末、明治初期という時代は利権をどう創造するかという時代でもあったわけで、小栗を中心とする幕府改革派は新時代において利権創造という仕事をしていたと思う。利権を得るのは勝負に勝てばいいだけだが、利権を創造するというのは諸制度の改革やら新概念の理解や導入など多くの困難に直結する。そういう利権創造が一番難しいことだと思うが、小栗ら幕臣が自分の立場をあまり顧みず(ってわけでもないだろうが)、断固行動して突き進んでいった事実を称えたい。ま、小栗らはあまり報われなかっただろうがね。
よく維新なんとかとかを目指している政治家なりがいるけど、私にとって、維新=利権奪取って意味しかない。利権奪取を維新志士みたく渦巻く策謀を駆使して実現するということも示していて、さらに最悪なイメージ。基本的に維新志士=切り合いでなんとかするなんだよな。切り合いで日本の政治やら経済やらがよくなるわけでもない。もっと創造的な行動を取った幕府改革派の諸氏を掲げる方がましだと思うんだな。
以上、独断と偏見から書いてみた。