[UP] [jback] [fork]

2003/03/27: 経済考その6

 片岡義男氏の日記をなんとなく見てみた。フルーツメールで紹介されていたやつである。それによると「50兆円もの供給過剰」であるという。さらに、「消費の拡大でそれを埋め合わせてひとまず均衡させるには、新しい技術による高付加価値の製品の開発が不可欠だ、などと言われている」とか書かれている。けれど、「50兆円の供給過剰」と「新しい技術による高付加価値の製品」とが論理的に繋がらない。そもそもこういう考え方が既成の理論と常識に囚われた狭量な論理の他ならない。新しい製品作ったって売れるかわからないじゃん。新しい生産を作るまでに副次的な生産が生じ、供給過剰が加速もするだろう。余っているのはすでに作った供給過剰な製品なのである。これから作る新しい製品でない。

 で、ものごと単純にしか考えられない私のおつむから言うと、「50兆円の供給過剰」があるなら国民に配れ。ただで。「50兆円の供給過剰」を半ば強制の形で紙幣発行してでもいいから、生産者から買い取り、消費者たる国民に与えればいい。すると、一気に「50兆円の供給過剰」が解消する。ただ、インフレにはなりそうだな。「50兆円の供給過剰」を経済を刺激し需要を高め消化していくという手法が正当なのだろうが、もはや無理。戦争で「50兆円の供給過剰」を強引に消費と、ただで配るのとはどっちも同じ。戦争の方が合理性が少しはあるかもしれないが、きちんと考えれば同じなのだ。「50兆円の供給過剰」を削るもっとも政府らしいやり方と言えば公共事業を絡める方法であるが、余計な生産が入るので結局他に何百兆円も払わないと「50兆円の供給過剰」を埋め合わせできなく、まったく不効率である。ものごと単刀直入にやった方がいいのである。

 インフレ目標にしろ、銀行から株式を買い上げるなどにしろ、多くの政策は回りくどくて直接的でなく無駄が多い。無駄が多いというのは金をかけても、それらがいつの間にかどっかに行ってしまって、実際効用を示す分が少ないという意味である。回りくどくするのは、それらの政策が経済政策としては本来異常ではあるけど、異常に見せないようにするためなんだろうが、そういう見せかけ上の便宜のための無駄というのは見ていて本当に馬鹿なことをやっていると思うしかない。経済を活性化させるためには銀行がきちんとしていないといけないのは分かるが、銀行がきちんとしているからと言って経済が活性化するわけではないというのは今までが物語っている。しかし、経済政策は金融機関の安定化しか行っていない。必要条件の一つを満たされたところでどうしようもないのだがといつも思うばかりである。そして、そこにデフレの元凶の一つを感じたりもする。

 昔、子供と老人に金を配るというのをやっていたが、現物支給の方が良かったのではないのかなと今は思う。供給過剰の埋め合わせる一つの形として。金が余っているのではなく、物が余っているのだ。だから、物をやればいいという論理をどうして単純に考えつかないのかその辺いつも疑問に思うことである。

 片岡義男氏の日記には何か革命的なことが必要だと感じられるけど、その革命的なことを常識で否定している。そういう考え自体は普通なのだろうが、今の状態を解決するには不十分である。革命と常識とが鬩ぎ合う常識人の苦悩を感じぜざるを得ないが、そういう苦悩に付き合うほど世間は悠長ではないことを多くの人が知るべきでもあろう。で、私は片岡義男氏への批判を述べているのではなく、日記から一般性を感じるからそれに対して意見を述べているだけであって……

 50兆円というと一人50万円。現物支給で50万円のものが配られる。支給されたものは個人の強制資産となり売る事ができなくなる。ただし、再生されないゴミとしての処分は可能。ま、一人50万円分と言っても、何が当たるかわからない。変なものが当たった日には悲しくなるかも。自分が売り物として作った50万円相当の物が当たったり、男なのに女用のものが当たったり、免許持っていないのに車が当たったり。赤ちゃんなのに墓石が当たったり。多くの喜怒哀楽が生まれそうでいいと思うんだけどな。

 批判ばかりしてもしようもないので、次こそ具体的な解決法でも。