人が働いて金を貰って、それで物を買って生きて、さらに働く。それが人の原理だと言えるが、どれだけ働けばどれだけの生活をできるかというなんらかの力学は未だ不明である。賢い人は楽して豪華に生きれるし、不幸な人はどんなにあくせく働いても生活は厳しいまま。その基準を決めている最大の原理がもっともあいまいなのだ。そして、このあいまいさが今の経済のデフレ傾向を作り出しているんだと思う。
世界は生産力過剰であるが、これは先進国に限られる。生産力の基本となる資源が有限だからだ。後進国であれば、ひたすら働いてもそれは先進国に吸い取られるばかり。これが一種の為替格差である。日本は先進国の一部であるから幸福なのだけど、どれだけ働けばどれだけの生活ができるという力学があいまいなままなので、人々がどれだけ働いて、そして、それがどれだけ自分に返ってくるかということも分からないという不幸を持つ。日本は戦後の最低の状況から世界有数の経済大国になることが適ったが、こういう五里霧中な状況で国民が生き続けている状況は変わることがない。そしてこれが無気力を生むんじゃないのかなと思う。無気力が国の進むべき道を見えなくさせる。見えないんじゃなくて、作るべき道を作ろうとしなくなるのだ。
高い生産力は人に可能性を与えるが、可能性はそれを実現しないと意味がない。可能性というのはあることを実現する確率を上げてくれるだけで、何を実現すればいいのかを教えてはくれない。それは人それぞれが見つけるべきことなのだ。高度な教育と情報化社会によって国民は高い知性を得はしたが、それは多くの断罪を生むことしかなかったようである。その断罪自体は正しいことであると思うのだが、人は断罪する代わりに別な権利を得るべきなんだと思うのだが、それを多くの人は考えようともしない。
具体的に書けば、工業化によって自然の破壊度が高まったがそれを環境問題としてしっかり考えるようになった。馴れ合い主義の隠れた政治というものが、情報化によってより開かれた公正な政治に変わるようになった。経営状況を的確に把握し、それによってうまく行動できる会社だけが生き残れるような厳しい経済になった。それはいずれも断罪の成せる技ではあるが、これに対する新しい権利を人は得てない気がする。それは、多くの創造的は活動を人それぞれがしてもいいということであると思う。その創造的な活動が具体的に何なのか、そしてそれが創造的であるべきなのかなくてもいいのか、そして、人がそういう新しい活動を活発化させるべきなのかということは私には分からない。それは政治や国民的意思によって判断されるべきものである。
アメリカを例に取れば、その高度で活性化された経済力によって高度な軍事力を持ち、それを世界に対して行使している。それは旧来の帝国主義の延長かもしれないが、多くの断罪によって勝ち得た権利という気がして、表立って非難する気があまりしない。ただ、言えることは、その帝国主義の延長がアメリカ国民にとって本当に望まれることなのか疑問であるということである。帝国主義的傾向はアメリカに大きな意思という流れを作ることを可能にしているが、もっと別の方向があると思うのである。そして、その方向に日本は行って欲しいのであるが。アメリカのその意思はグローバリズムという名の元に世界を席捲していて、アメリカだけの問題ではなくなってはいる。それは当然アラブ社会も巻き込み、アラブ社会における不釣合いな力学から生まれる、ある種矛盾に満ちた行動の標的になったりもする。アラブ社会のそういう行為にアメリカは無邪気に勝気な対応をしてはいるが、それはある意味分かりやすい現象なのだけど、それが生む結果というのはあまり創造的には見えない。
日本はアメリカとは別な道を取って、それによって世界をもっと違った創造性ある形へ導いて欲しいなとか思いもする。その方が面白いからね。日本にはそれを実現できる経済的余力がある。まぁ、中国がやってくれるかもしれないが、あまり他人任せであるのはよくないことであるし。
少し単純な話に戻って、人が金を1万円稼ぐことを考えよう。たぶん、日本では1日働けばそれぐらいは稼げるだろう。ただ、その1万円はなんだということである。1万円で他から物やサービスをそこそこ手に入れることができるんだと思うが、働いたことが物やサービスを生んだと言っていいのかというのが問題である。簡単に言えば、働いたことによって経済の中で漂っていた1万円がたまたま自分の手に入って、それを使うことで物やサービスを手に入れることができたということでしかない。それは、1万円働いたということが何かを生産したということに繋がったわけではなく、どこから漂ってきた物やサービスを手に入れたということなんだと思うのである。つまり、働くということは生産的なことではなく、何かを他から獲得するための手続きではないのかということである。
生産力過剰な社会では、自分が働いたことによってどれだけの物やサービスが生産されたが分からない。そして、それは、たくさん働いたかによってたくさん物やサービスを得るという原理を否定することに繋がる。それは、収入支出のバランスを破壊することでもある。生産力過剰な社会では働くことは手続きでしかなくなる。そして働いた給料はよく分からない根拠によって定まる。給料=貨幣の量はよく分からない根拠によって決まり、それは収入と支出がバランスよく定まるという原理を乱す。どうやって乱すかの実例はたくさんある。実態のない株式が定める価値なんかそうだ。何気に徴収される税金もその一つ。株式は人がより多くの貨幣を持つことを市場原理から導き出す道具であり、税金は政府が社会に動きを与えるための道具である。それは人がどれだけ活発に動けるかのための道具であって、どれだけ動けなくさせるかの道具ではない。その辺りの原理を多くの人は分かっていないらしい。
昨今、株価は下がりっぱなしだが、それは人が目的を失って行動する何かがないのだから仕様がない。ただ、株価は人が活発に動くための道具であって、その上下を心配することはそもそも必要ないと思うのだ。だけど、株価が下がれば国富が失われるとか言って、そもそも昔は何もなく、一時期、幻想という形で国富となったことに対し、一旦それが失われると悲しむということはなかなか理解しづらい。国富がどれだけあるかが、人がどれだけ活発に行動するかを決めているのではない。それを決めるのは将来への展望という人の意思であろう。
だからどうすればいいんだという基本的な感覚を次に書いてみようかな。