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2003/03/02: 経済考その3

 経済とは何かということを考えてみる。社会は人が生きる場を与えるところである。経済は人が動くために役立つ場を与えるところである。人が生きるためには社会は必要だが、経済は別に必要ではない。そして、社会だけの世界は極めて原始的な環境でしかない。人が動くためには、他人と協力しなければならない。人一人でやっても自己充足でしかないからだ。他人と相互作用することで人の活動が意味を持ってくる。そして、その相互作用を効率的に、そして、有効的になされるようにする場が経済だと思う。

 つまり、経済の主題は人がどれだけ活発に行動できるかなのである。経済には金というものが存在する。金は他人を動かし、それによって自分だけでは得られないモノやサービスを得るために都合がいい道具だ。経済がよく機能するためには金がどれだけよく動いているかが指標となろう。多くの人は金持ちになろうとする。金がたくさんあればそれだけ大きな活動をすることができるからだ。多くの人が多くの金を持っていればそれだけ経済は活性化していると言える。ただし、金は無限だが、人・モノ・サービスは有限である。金は増やそうとすれば物理的に増やすことは可能だが、その相対的な価値は人・モノ・サービスに対して下がってしまう。その金のバランスはかなり経済の重要なポイントでもあろう。

 金のバランスをどう保つかは経済の重要な命題の一つでもある。その一つの方法論に収支のバランスを保つということがある。収入と支出のバランスが整うように行動する分だけの金が人なり会社なりに割り当てられることで、金の量が適切に決められる。ということは私が読んだ数少ない経済の本には書いてなかった気がするが、極めて重要な原理だと思う。これを収支紙幣バランスの方法とでも読んでおこう。これがいわゆる市場原理なのかもしれないが、市場原理はもっと高度な概念という気もするのでこれとは分けておく。

 ただ、この方法は極めて有効ではあったが、高度に発達して現在の経済状況ではある種の破綻が生じている。と言うよりは、実はこの収支紙幣バランスの方法ははじめから機能していないのではないかとも少しは思うのである。更に言えば、収支紙幣バランスというのは経済なり会社なりの規模を決めているものでしかない。経済なり会社なりがまず存在して、金の流れがあって、そして、その流れが経済なり会社なりに流れ込むとき、収入と支出の量がバランスが取られるように経済なり会社なりの活動の活発さが決定されるという感じである。

 社会が作る潜在的な動機付けなる大きな意思の流れが経済の規模を決定し、経済の中で流れの大きさを変化させる。自己還流的な構図を持つが、経済というのは常に金銭という明確な証拠が存在し、その証拠が動機付けを大きく作用する。人が賢ければ、経済によってより大きく流れが激しくなるし、逆に弱くもなる。ただ、現在はその賢さが中途半端なため、収支バランスに固執し、動機付けを弱くしている。経済の収支バランスというのは、本来、動機付けなる大きな意思の流れを抑制するような性質なものだと思える。収支バランスを重視するのは重要だが、そこにある種の完璧主義が入り込むとき、経済が萎え、社会の動機付けも萎えてしまう。

 そういう社会・経済の力学の本質を理解する・把握することが最初だと思う。その次にくるのは、経済というしくみをどう活用すれば、社会の流れを活発化させることができるかということである。しかし、社会の流れが激しければいいというものでもない。安定が好きだと言う人もいよう。ただ、社会としては共有できる一つの概算が必要だと思う。社会の概算、つまり、社会が何をどれだけの規模で行おうということがはっきりしないと、現在のように充足し切った社会では、動機付けが失われ、社会の流れを停滞させることになる。ただ、停滞させてもいいのかもしれない。そこが簡単に言えないのが難しいところである。

 日本みたいな経済活動に専念し、それ以外の動機付けを持たなかった社会では、経済上の失速が起きた場合、これを解決することは難しい。経済的視点から問題を解決しようとすればするほど、経済がもつ理性により、社会の流れを抑えてしまうからだ。これは一種の矛盾とも言える。経済を活性化させるための対策をより合理的に考えるほど、経済は抑制する心を高めてしまうからだ。とは言え、経済の理性を捨て去ることもできない。そうすれば日本自体のアイデンティティが失われることになる。

 よく、財政出動をせよとかインフレ目標を立てよとか言われている。目標なき財政出動は単に自暴自棄になっているだけでしかない。自暴自棄になるのも手かもしれないが、それで万事解決するわけでもない。たぶん、そこにある一つの結果は、今まで作り上げたすべてを破壊して、再出発するという形だけであろう。その一例としては、戦争である。もっとましな形としても、それは日本の経済における優位性を失うこととか、自然破壊し尽くされて日本の国土をもはや愛することもできなくなってしまう状況とかになりかねない。最悪な結果に行き着く前に、他の国がいい方法論を見つけて、自暴自棄になっている日本の我を返らせるという他人任せもあるだろうが、それは取るべき道ではないと思う。ただ、この道を多くの経済人、政治人なりが進もうとしていることを私はすごく悲しく思う。

 インフレ目標にしても、「インフレになあれ」と叫んで実際インフレになるか疑わしい。多くの会社が経済の動向をよく観察し、今の過酷なデフレ状況に適用しようと努力しているのを見ると、デフレからインフレになる要素が見当たらないのだ。 昔みたいに一部の人しか経済の動向が分からないという盲目な時代ではないのだし、政府が意図して作り出したインフレ雰囲気に呑まれるわけなかろう。今は、金や物や人やサービスがあり余っている時代である。過剰な生産力が物が余らせ、方向性の見えない中で金が余り、社会が動かないから人やサービスが余る。 新聞で国債を買う「買い取りオペ」すればとか書いてあったが、今の余剰な時代の状況に反している。貨幣を増やしてなんになるのだろう。それは経済が理性をもってデフレを演じているのに対し、貨幣を増やすことで経済の理性を超えた状況を作り出すことでしかない。それは破滅をもたらす。貨幣を増やしてデフレ圧力を減らし、投資を活発化させ、経済を活性化させる意図は分かるが、それを引き起こす力は、インフレ目標ではないと思う。それは何か具体的な目標なのである。 インフレ目標を設定してインフレ状態を作り出すことは、運動しないで太っている人に、運動するためにはカロリーがより必要だから食事をたくさん取るように言うことと同じという気がする。太っている人が運動するかはわからないし、運動すればやせるのかどうかもわからないし、食事をたくさん取ってさらに太るだけなのである。

 次に、社会の流れと貨幣の位置付けの力学をもっと詳細に書く予定。